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三代目代表取締役 小笠原崇之
1981年12月生まれ
小松屋クリーニングは今年で創業75年(2023年現在)を迎えることができました。これもご利用してくださるお客様の存在があるからこそです。
誠にありがとうございます。
1947年(昭和22年)、私の祖父・幸之亮と祖母・松枝が、戦後の混乱の中、名古屋市緑区大高(当時は南知多郡大高町)で小さな洗濯屋を始めました。「小松屋」の名の由来は、肝っ玉母ちゃんだった祖母・松枝(通称:小松っちゃん)から来ている……という説がありますが、真相は今となっては分かりません(笑)
戦前は小松屋の屋号で砂糖と小麦の卸売り店を長く営んでいたようです。
当時は機械もなく、洗濯板で手洗いし、オート三輪車で宅配する時代。父も幼い頃から家業を手伝い、小学校の運動会さえ早退していたそうです。
そんな父が2代目となり、時代とともにドライクリーニング機械を導入。地域の皆様に支えられながら、クリーニング店として歩みを進めてきました。
- 小松屋創業当時
- 昔の受付
- 2代目と本店
- 昭和50年代の工場風景
- 昔の店舗写真1990
- 昭和50年代のクリーニング機械
- 2代目お店出店時
- 本店昔店舗 平成18年ごろ
- コロナ禍のお店
- 現在の本店
地域に根付いたクリーニング店としてお客様の大切な衣類を真心こめてクリーニングしております。 初心、謙虚さを忘れることなく。常に自己研鑽、改善を通じお客様に選んでいただけるクリーニング店を目指し続けます。 「真心を込めたサービスで関わる全ての人を美しく豊かに」
さて、私の話をしましょう。
高校卒業後、私には特に夢もなく、父に勧められるまま愛知県内のクリーニング店へ修行に出されました。午前はクリーニング業務、夕方は専門学校で勉強。気づけば国家資格「クリーニング師免許」も取得していました。(ちょっと自慢です 笑)
ですが、当時の私は「早く仕事終わらないかな〜」とばかり考えていました(笑)
まったく自覚なしのダメダメ修行生。
そんな私も、ある日気づいたんです。「クリーニングって、ただ洗うだけじゃない。人の大切な思い出を守る仕事なんだ」と。
修行を終え、実家に戻った私は二代目の父と仕事をすることになりました。
幼いころから父子家庭であった我が家、四六時中一緒の父子関係は、衝突の連続。
正直、仕事への情熱はますます冷めていました。
その頃、私が熱中していたのはストリートダンス。夜はインストラクターとして活動し、ダンスバトルやコンテストで入賞を重ねていました。なんとNHKのダンス特集番組で「クリーニング屋ダンサー」として紹介されたことも(笑)。
クリーニング業を継ぐ気持ちは、ほぼゼロでした。
当時どれほど仕事に身が入ってなかったかと言うと朝10時くらいから仕事を始め 午後の3時ぐらいに仕事を切り上げ、
当時大好きだったストリートダンスを夜中まで踊り続ける。というダンスに真面目でクリーニング業に不真面目という日々を送っていました。

ダンスに打ち込んでいた当時 すごい髪型(NHK番組より)
ダンススタジオのインストラクターとして夜は仕事をし、そこそこの収入も頂けていました。
お恥ずかしい話…当時は家業のクリーニングを継ぐ意志がまったくありませんでした。父の仕事のお手伝い程度、ダンスに関わる仕事を模索していました。そんな当時も、今となっては良い経験が出来たと思っています!
そんなクリーニング師としてはゆる~く好き放題生活を続けて20代も後半に差し掛かったあるとき、父の末期癌が発覚しました。
病気で調べて結果が分かった時にはすでに遅く余命ももって数か月の宣告。
父への申し訳ない気持ちや不安、毎日の追われる色々な問題で肉体的にも精神的にもめちゃくちゃでした。
それまで、クリーニングの工場作業だけしかやってこなかった自分、身から出たサビとでも言いましょうか….いきなり経営や経理などやらなければならない状況になってしまい、まさに状況はやらざるを得ない状況でした。
しかし、そのとき初めて気づいたんです。
父がどれほどの覚悟でこの仕事を守ってきたか。 お客様がどれほど小松屋クリーニングを必要としているか。
「クリーニング業に人生を賭ける」。その決意が固まった瞬間でした。
それと同時に助けてくれる家族の存在、身内の存在がありました。 ひとりで出来ることなど本当に少ししかないということも気が付きました。 家族や働いてくれている仲間には感謝してもし切れません。 亡くなってから気づく父の凄さ、 もっと話しておけばよかった、仕事のことを意地を張らず聞いておけばよかったと何度も悔みました。
厳しい日々は続きました。困難は今も変わらずあります。でも、ある時ふと思ったのです。「大変じゃない人生なんて、誰一人としてないのかもしれない」と。
父が亡くなった後の私は、あまりの大変さに押しつぶされ、「自分は不幸だ」と思い込んでいました。その思いが強くなりすぎた結果、十二指腸潰瘍やコリン性蕁麻疹という病を発症。汗が正常に出なくなり、クリーニング作業中に倒れてしまうほど体が弱っていました。
しかし、不幸であるはずのその病がきっかけとなり、自分自身の考え方を変えるきっかけとなりました。
「苦しみの中にも喜びを、困難の中にも楽しみを見つける努力をしよう。」そう思えるようになったとき、病気も次第に克服し、今では健康を取り戻しました!
不思議なもので、心が変わると、周りの景色も変わる。スタッフとの接し方も、お客様との関わり方も、以前よりずっと良いものになっていきました。
『先の見えない不安』に突き動かされ勉強会やセミナーなどに数多く参加し、 かけがえのない素晴らしい先輩方や先生との出会いがありました。
クリーニング業の奥深さを知ることができたのです。「地域で一番喜ばれるクリーニング店」を目指そうと決意しました。
出会いで人生が変わりました。何よりクリーニング業の魅力に気が付かせて頂けました!そして自分を常に成長する機会へと導いていただけております!今も毎日が学びです。
まだまだ未熟な私ではありますが、クリーニングがこの仕事が大好きです。 工場やお店で寝泊り出来るほど(笑)
一緒に働いてくれている仲間達にもここで働けてよかった!そんな風に思ってもらえるよう地域のお役に立てるクリーニング店になれるよう一歩一歩進んでまいります。
「クリーニングは魅力回復業。アイロンをかけるだけ、 シミを取るだけ、 ではクリーニング業ではない」と教わり、そんな存在、お店になりたいと一歩一歩ですが登っていけるよう。日々精進していこうと思います。
僕自身、凝り性な性分なので好きなことには一直線で回りが見えなくなります(ダンスもそうでした)シミ抜きや仕上げなどの研究をしだすと気が付くと夜中なんてことが良くあります(笑)
ですが受付業務、接客によっても気持ちを綺麗にしてあげられます。 本当に奥が深く楽しくやりがいのある仕事です。まだまだ至らずお客様よりお叱りをいただくこともありますが、
「ご指摘こそ宝」慢心していないか省みる機会と受け止め、より良いサービスを目指して改良、改善の日々です。
一生を通じて技術・サービスのそろったクリーニング店「地域で一番喜ばれるクリーニング店」を常に目指し続けます。
お客様のまた着たいまた着れるを叶えるそんなクリーニング店になりたい。 新品の服の袋を開けた「ときめき」を少しでも蘇らせる。
衣類のトータルメンテナンスのできるクリーニング店として100年続く会社を目指しこれからも努力精進をしてまいります。
令和二年一月、当店は法人化をいたしました。
小さなお店ですが働いてくれる従業員みんなに安心して働ける職場になるよう。
お客様や地域社会のお役に立ち、より喜ばれる存在になっていけるよう。
一歩一歩着実に、毎日を謙虚に丁寧に歩んでいきたいと思います。最後まで読んでいただきありがとうございました。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
株式会社小松屋クリーニング
代表取締役小笠原崇之